ロディニアのアニメ・音楽系なブログ

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『ザ・ビートルズ』とその前身バンド『ザ・クオリーメン』について

ザ・ビートルズ』とその前身バンド『ザ・クオリーメン』

 

ザ・ビートルズ(The Beatles)』誰でも一度はその名を聞いたことがあるであろう。天国も地獄も国境もないと歌った「イマジン」などの名曲を作ったボーカル、ギターのジョン・レノンロンドン五輪で(世界中のオリンピック選手たちも歌った)「ヘイ・ジュード」をピアノ弾き語りで歌い上げたベース、ボーカルのポール・マッカートニー、様々なギターリフを作ったり、インド音楽をいち早く楽曲に取り入れたリードギタージョージ・ハリスン、楽曲「イエロー・サブマリン」などの制作やビートルズ解散後はソロで活躍し、ナイトの称号を授与されたドラマーのリンゴ・スター、その4人が在籍していた伝説的なロックバンドである。

 


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ジョージ・ハリスンの考案したギターリフが魅力の「デイ・トリッパー」

 


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リンゴ・スター作曲のちょっと不思議な「イエロー・サブマリン」

 

 そんなビートルズにはリーダーのジョン・レノンが結成した前身バンドが存在した。ビートルズの存在は知っているが、その前身バンドのことを知らない人は多いのではないか?

私自身ビートルズ自体の歴史について知ったのはここ10年くらいである。クオリーメンのことを知ったのは正直最近のことである(笑)。ビートルズの前身のバンドがあるなんて全く知らなかったのだ。

 

今回はその前身バンド、『ザ・クオリーメン』について調べたことを書いてみたいと思う。

 

 

ザ・クオリーメン (The Quarry Men) は、ビートルズ結成の4年前の1956年にジョン・レノンがイギリスの港街リヴァプールで結成したスキッフル / ロックンロールバンドである。

私は、ビートルズのことは小学生高学年くらいの時に知って、テレビ番組の「開運! なんでも鑑定団」で使われているビートルズの曲「ヘルプ!」や父のカセットテープ、ヒットチャート1位を取った曲ばかりが入ったアルバム『1』などで知り、なんだか聴き心地がいいなと思っていた。

 

 

 

ザ・クオリーメンは、1958年にアメリカのバンドマンであるバディ・ホリーの曲「ザットル・ビー・ザ・デイ」や、クオリーメン後期のメンバーであったポール・マッカートニージョージ・ハリスンが作曲した「イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デインジャー」の録音を行ない、その後、メンバーの交代や幾度かのバンド名変更を経て、クオリーメンは1960年に世界を席巻するザ・ビートルズとなるのだ。それまでの経過をみていこうと思う。


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1950年代のイギリス、時代はスキッフル・ブーム。ジョン・レノン少年は当時、「とにかくギターが弾きたい!」と、まずはミミおばさんにねだってギターを買ってもらい、弾き始めた。レノン少年16歳の時だったとされる。
 レノンは近所では名の知れた不良で、ピート・ショットン、エリック・グリフィス、アイヴァン・ヴォーンという仲間たちと悪さをやっていたと言われることもあるが、レノンは頭がキレるので、大人を言葉で負かして悪い印象が生れ、それで不良と呼ばれるようになったのではないか? そう思うのだが。


 1956年11月、クオリー・バンク高等学校在学中のジョン・レノングリフィスはスキッフル・バンドを結成することを決めた。後世に音楽史に多大な影響を与えることとなるバンドである。しかしこの頃は誰がそのことを想像できたであろうか!

そしてレノンは仲間を集めてバンドを結成する。最初のメンバーは、ジョン・レノン、エリック・グリフィス、ピート・ショットン、同級生のビル・スミスの4人。
 

ジョンとグリフィスはギターを担当した。ビル・スミスがティーチェスト・ベースを担当する。ティーチェスト・ベースとは、茶箱にモップの柄のようなものをくっつけて、太い1本のヒモを張って、ぶんぶん鳴らす楽器で、安価で自作可能のものである。
 ピート・ショットンはウォッシュボードを担当。その名の通り洗濯板を擦(こす)ったり叩いたりしてリズムを刻む楽器だ。
 ティーチェスト・ベースとウォッシュボードがいわゆるリズムセクションで、素人でも一応音は出せる楽器であった。

初期の編成は、レノンとグリフィスがギター、ショットンウォッシュボード、スミスがティーチェスト・ベースという編成だった。

画像出典「私家版楽器辞典」



ティーチェスト・ベース

 

 

当初のバンド名はレノンとショットンがふざけてつけた「ザ・ブラック・ジャックス」であったが、学校の名前クオリー高校を参考に(クオリー=採石場、石=ロック)「ザ・クオリーメン」(The Quarry Men)に改名する。レノン的にはダサい名だと思ったが多数決で決められたらしい。

 

ジョンの友人のアイヴァン・ヴォーンは、一時期クオリーメンに入ってティーチェスト・ベースを担当したが、すぐに脱退する。バンドメンバーとしての活躍はあまりないが、ほどなく最重要キーマンを連れて来るのだ。
 ヴォーンは、それなりに勉強ができたということもあり、そして何より、両親が不良のジョン・レノンと同じ学校に進学することは猛烈に反対したため、レノンとは別の学校に進学する。そこで友達になるのが、なんと後のビートルズのキーマン、ポール・マッカートニーなのだ!

 

そして1957年7月6日、レノンは野外バザー会場での演奏のため赴(おもむ)いたウールトンという街のセント・ピーターズ教会で、共通の友人ヴォーンの紹介によりポール・マッカートニーとの運命の出会いを果たす。マッカートニーはその場でギターを弾きながらアメリカ合衆国のロックミュージシャン、エディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」、同米国のジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それに同米国のリトル・リチャードのメドレーを歌う。完璧に歌詞を暗記していることに加え、ドラムスピアノなどあらゆる楽器を演奏できるマッカートニーを高く評価したレノンは、数日後にマッカートニーをクオリーメンに勧誘(かんゆう)する。マッカートニーは翌日に承諾(しょうだく)し、10月にクオリーメンとしての初の出番を経験する。

 

正直私はレノンとマッカートニーがこんなに早く出会っていたとは知らなかった。ギターにドラムにピアノと、後にベースも上手に弾きこなすテクニックを持っているとは……ポール・マッカートニーのポテンシャルは思っていたよりもずっと凄い人だと思った。さすがは世界を席巻し、今なお現役のビートルズのメンバーであると。


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1958年2月、マッカートニーがクオリーメンのメンバーになんとジョージ・ハリスンを紹介する。後のビートルズのリードギタリストである。完璧に曲を弾きこなしたことと、2人よりもギターのコードに詳しいことから、レノンは即座にハリスンを採用する。8月マッカートニーの友人だったジョン・ダフ・ロウが、米国のロックシンガー、ジェリー・リー・ルイスの「Mean Woman Blues」の難しいアルペジオ部分が弾けたため加入する。


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1958年7月12日、レノン、マッカートニー、ハリスン、ハントン、ロウの5人で17シリング6ペンス(1万6~8千円くらい)を出し合い、リヴァプールの貸しスタジオ「フィリップス・サウンド・レコーディング・サービス」で初の録音を行い、1枚のレコードを自主制作した。A面に「That'll Be The Day」(オリジナルは1957年のバディ・ホリーの曲)、B面に「In Spite Of All The Danger」(マッカートニーが書いた曲)が収録された。このレコードは長年に渡ってロウが所持していたが、1981年にマッカートニーが買い取り現在まで所持している。この音源は1995年にアルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』の収録曲としてリリースされ、その際「In Spite Of All The Danger」はハリスンがギターソロを弾いたことから唯一の「マッカートニー&ハリスン」作品としてオリジナルの表記通りクレジットがなされた。


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(オリジナルバディ・ホリーの曲)


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「In Spite Of All The Danger」

 

 

だが録音の直後1958年にロウが脱退し、つづいて1959年1月にハントンが脱退する。

この頃から「クオリーメン」ではなく「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」と名乗るようになる。「ムーンドッグス」とは音楽のジャンル『ロックンロール』をアメリカのラジオで広めたDJのアラン・フリードのあだ名で、おそらくレノンらがフリードに敬意を払ってつけた名前だろうと思われる。

 

その後レノンの学友で「5人目のビートルズ」と呼ばれるスチュアート・サトクリフが参加、バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。この頃ドラムのメンバーが加入と脱退を繰り返して、ドラマーはなかなか決まらなかった。メンバーが目まぐるしく変わってゆく……音楽に対する情熱や考え方の違いでバンドが解散するなり脱退するメンバーがいるのは彼らでも変わらなかった。

 

1960年8月、「ザ・ビートルズ」(The Beatles)が生れたのだが、コーヒー・クラブの経営者の息子ピート・ベストをドラマーに迎え、レノン、マッカートニー、ハリスン、サトクリフ、ベストの5人体制で、バンド名を「ザ・ビートルズ」(The Beatles)と改名した。

 

そして1962年8月までにサトクリフとベストが脱退し、ドラマーのリンゴ・スターが加入し、本当の意味で後世に残るビートルズが生れたのだ。そしてビートルズEMIパーロフォンレコード会社からデビューし、1970年までに世界中で史上稀にみる大成功を収めるのである。

 

5人目のビートルズ

スチュアート・ファーガソン・ヴィクター・サトクリフ

ビートルズの元ベーシスト愛称は「スチュ」。しばしば、「5人目のビートルズ」と呼ばれる。

 

スチュアート・サトクリフ

画像出典「甲虫楽団ブログ」スチュアート・サトクリフ



スコットランドエディンバラに生まれ、リヴァプールで育った。リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに進学。外見もよく、画家としての実力にも優れたサトクリフは学校の人気者であった。在学中に共通の友人を通じてジョン・レノンと出会い、共同生活をするほどに親しくなる。その仲の良さにはポール・マッカートニーが嫉妬するほどだった。元々楽器は弾けなかったが、1960年に自分のが60ポンド超えの高値(1ポンドが2万円以上)で売れたことからレノンとマッカートニーに勧められてベースを購入、レノンが結成したスキッフルバンドのクオリーメンに加入した。

後に、サトクリフとレノンの発案によりクオリーメンはザ・シルヴァー・ビートルズを経てザ・ビートルズへと改称する。レノンの敬愛するアメリカのバンド、『バディ・ホリー&ザ・クリケッツ(コオロギ、イギリスのスポーツとも同じ名前)』からヒントを得、バンド名に複数の意味を持たせる。ビートル(Beetle)は、もともとはカブトムシなどの甲虫を示しており、不快に感じる人がいるかもしれない。そこでスペルを変更し、音楽のbeatの意味も持たせて『Beatles』としたのだ。


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クリケット 少し野球に似たスポーツ。野球の原型になったスポーツとも。

 

サトクリフの死

サトクリフはビートルズ脱退後、画家を目指していたが志半ばで若くして死んでしまう。レノンは、サトクリフの死の際、葬儀への参列や献花を自粛した。しかし後年、レノンの妻オノ・ヨーコによればレノンはしばしばサトクリフの名を口にし、「彼はもう1人の自分のような存在だった」と語っていたという。また、サトクリフの彼女のキルヒャーから渡された遺品のマフラーを手放すことはなかったという。レノンのサトクリフへの深い友情が垣間見れるような気がする。。

レノンはサトクリフが音楽と画家への道でもがいている姿と自分自身とを重ねていたのかもしれない。なかなかバンドメンバーが決まらない自分のバンドにもがいていたのではないかと思う。そして二人ともアーティストとして非凡な才能があったので二人は互いに惹かれ合い仲が良かったのかもしれない。

 

 

クオリーメンはビートルズという時代の渦をつくったロックバンドを生み出しただけではなく世界中のバンドに多大な影響を与えたのだと思う。私は世界を変えた彼らの功績は忘れられてはならないことだと思う。

 

 

 

  • 脚注 ※

 

スチュアート・サトクリフのその後

1960年8月西ドイツハンブルクへサトクリフはビートルズの一員として赴き、クラブでの演奏を始める。そこでクラウス・フォアマンの紹介で女性写真家アストリッド・キルヒャーと知り合う。サトクリフは意気投合したキルヒャー11月には婚約。労働許可証不所持や非行を理由にメンバーたちが次々と強制送還される中、同じく退去命令を受けていたサトクリフもキルヒャーから旅費を借りて1961年2月末に帰国するが、3月、単独でハンブルクへ再渡航する。4月1日、ビートルズは2度目のハンブルク巡業を開始する。だが、サトクリフの演奏技術は依然高くなく、演奏中にマッカートニーにベースのプラグを抜かれることもあったという。それだけマッカートニーは音楽に対して本気で、妥協を許さなかったのだが、サトクリフが可哀そうになるエピソードに思えてならない。この巡業後、サトクリフは自分の音楽への才能に限界を感じたのか、本格的に画家の道に進むことを決意し、ビートルズを脱退。これにより、ギターを担当していたポール・マッカートニーはベーシストに転向することになった。それにしてもマッカートニーはギターにドラムにピアノとさらにベースまでとは万能すぎると思う。

 

ビートルズを辞めたサトクリフは、キルヒャーと同居するためにハンブルク美術大学編入。画家としての創作活動に専念するが1961年の夏頃から頭痛などの体調不良を訴え始め、1962年2月には大学の講義中に倒れた。病院で診察を受けるも原因が特定できなかったため、一時帰国したサトクリフはより良い設備を備えた病院を受診したが、問題が依然発見されないことから再度ハンブルクに戻り、キルヒャーとの生活を続けた。しかし1962年4月に容態が急変し、救急車病院へ搬送される途中で脳出血により死去した。3回目の巡業のためにビートルズハンブルクを訪れる前日のことで、メンバーは到着した空港内でキルヒャーによりその訃報(ふほう)を知らされたという。脳出血の原因について詳しくは明らかになっていないが、学生時代に喧嘩した際に頭を強く打ち付けたことが要因になった可能性があるといわれている。

 

 

 

クオリーメンの再結成

1970年のビートルズの解散、誰もが再結成があるはずだと思わずにはいられなかったあの日、そして1980年のレノンの死去、もうビートルズはこの世に存在しないんだと落ち込んだあの日、そしてその後クオリーメンは、1997年に50年代の結成当時のメンバーも含めてピート・ショットン、ロッド・デイヴィス、レン・ギャリー、エリック・グリフィスコリン・ハントンの5人で再結成し以降、4枚のアルバムを発売している。また、メンバーが高齢化していることもあり、この中で亡くなっているメンバーもいる。

1994年から1995年にかけてデイヴィスとジョン・ダフ・ロウは、スタジオ・ミュージシャンと共にアルバムの制作作業を行なった。このアルバムは、1995年にクオリーメン名義で『Open for Engagements』という名で発売された。

 

1999年にレノンとマッカートニーが初めて出会った1957年のウールトンの野外バザー会場での公演から40周年を記念して、1997年にクオリーメンの1957年の編成からショットン、デイヴィス、ギャリー、グリフィス、ハントンの5人で再結成公演を行なった。ヨーロッパアメリカでツアーを行い、2003年9月には「リンダ・リンダ」(日本のパンクロックバンド、ザ・ブルーハーツの曲)を歌った甲本ヒロト率いる日本のロックバンドTHE HIGH-LOWSハイロウズ)の自主イベントに招かれ来日し、9月9日に東京・渋谷公会堂、10日に大阪フェスティバルホールで公演を行った。2003年THE HIGH-LOWSと共演した模様は『Puttin' on the Style』のタイトルでDVD化された

 

 

 

その後、

2000年にピート・ショットンが引退。2005年1月にエリック・グリフィスが膵臓癌(すいぞうがん)で死去。ロウが加入した。

 

2016年に、ビートルズに1960年12月の一時期、在籍していた左利きベーシストのチャス・ニュービーが加入した(2023年5月に死去)。マッカートニーよりも先にビートルズの左利きベーシストだったことに驚いた。

 

高齢のメンバーも多く、調べているうちに亡くなったことが分かったクオリーメンのメンバーが何人もいた。

彼らはビートルズという時代の渦をつくったロックバンドに多大な影響を与え、ビートルズの栄光の光のもとに再び音楽をするために集ったのだ。

 

 

クオリーメンを復活させるために集まったメンバー

  • レン・ギャリー(ベース→ボーカル)

レン・ギャリー
1942年1月6日、リバプール生まれ。

1955年の夏、アイヴァン・ヴォーンとナイジェル・ウォーリーを通じてレノンと出会う。56年にクオリーメンに加入しティー・チェスト・ベースを担当するが、58年に病気のため入院、結果的にバンドを脱退することになる。その後、建築関係の仕事に就き、ニュージーランドに移住するもうまくいかず帰国することに。リヴァプールへ戻り養護施設の職員となる。1997年のクオリーメンの再結成後は、リード・シンガーとしてレノンのポジションを継いでいる。病気で当時バンド活動が出来なかったので時を経て憧れをつかんだみたいで凄いことを成し遂げたのだと思う。

ロッド・デイヴィス
1941年11月7日、リバプール生まれ。

クオリーバンク中学に在学していたデイヴィスは、伯父さんからバンジョーをもらったことをきっかけに同級生のグリフィスから誘われクオリーメンに参加した。1957年のステージを最後に脱退し、ケンブリッジ大学に進学後は語学教師、ツアーガイド、カレッジ講師、翻訳者など職種を転々とするが、クオリーメン脱退後も音楽から離れたことは一度もなかった。大学時代にはジャズ・バンドを結成。レノンからザ・ビートルスでドラムをやらないかと誘われたが断り、のちに「ビートルズになるチャンスを二度逃した・・・」と語っている。なんとも惜しいことをしたと思わせる。

コリン・ハントン
1938年12月12日、ブートル生まれ。

メンバーではただ一人、実業学校の出身。56年の夏、コリン・ハントンがドラムを購入したことを聞きつけた知り合いのエリック・グリフィスが彼をバンドに誘いクオリーメンに加入することに。58年にクオリーメンが作った唯一のレコードにも、レノン、マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ダフ・ロウとともに参加している。オリジナル・メンバーとしては最後にバンドを脱退し、その後は家具職人となる。そして再結成でクオリーメンに再び舞い戻って来たのだ。